1. 医療者も地域の人も、同じまちで暮らしている
私たち医療者も、地域の人たちも、同じスーパーで買い物をし、同じ道を歩き、同じ祭りに参加しています。
どちらも特別な存在ではなく、同じまちで暮らす一人の住民です。
けれど「看護をまちに持ち込む」と、どうしても“専門職の壁”が立ちはだかることがあります。
ヒーリングや薬膳、フットケアといった取り組みは、暮らしの延長線上の営みとして自然に受け入れられるのに、看護は「病院」「医療」「白衣」といったイメージに縛られてしまい、日常にはなかなか溶け込みません。
そのため住民は「どう相談していいか分からない」「どこまで頼っていいか分からない」と戸惑い、看護師も「どう入ればいいのか分からない」と迷ってしまう。
実際に地域活動をして体験したのが、「病院にいるものだと思ってた。」「看護師?介護士?」「何を相談したらいいの?」など構えられてしまうこともありました。
結果として、なりたくないけど自然と看護はまちの中で“する・される関係”になりがちです。
でも本当は、看護も食や文化や遊びと同じように、まちの営みの一部であっていいはずです。
暮らしを共にする仲間として、一緒に作り上げ、分かち合えるもの。
歴史的に見ても暮らしの一部として存在していたはず。
その感覚を取り戻すことこそ、これからの看護に必要なのだと私は思います。
2. 医療者はなぜ“横のつながり”を求めるのか
以前「Love me Tender」という場を開いたとき、訪れてくれた人の過半数は医療職でした。
彼らの多くが口にしたのは、「私もこういうことをやりたかった」「どうすればこうした活動ができるのか」という言葉です。
最近ではSNSでも「医療者で集まりたい」「横のつながりをつくりたい」といった投稿をよく目にします。
アルゴリズムの効果もあるかもしれませんが、確かに横のつながりへのニーズは高まっていると感じます。
なぜか。
それは医療の現場が感情の濃い仕事だからです。
患者さんや家族と深く関わる中で、「本当はこうしたかった」「でも現実にはできなかった」という思いを抱えることは少なくありません。
守秘義務や責任の重さから、一般の場では話せないことも多い。
だからこそ、同じ体験を知る仲間に気持ちを吐き出したいのです。
だからこそ、横のつながりは必要です。
けれど、そこで完結してしまえば、それは“自己満足”で終わってしまいます。
看護の対象は、まちに暮らすすべての人たち。
横のつながりは大切にしながらも、それをまちへと開いていく必要があります。
3. まちの自然治癒力
人の体には本来、病や疲れから立ち直ろうとする「自然治癒力」が備わっています。
看護は、その力を邪魔せず、最大限に発揮できるよう整える営みです。
ナイチンゲールの言葉にも看護を定義するときに「自然治癒力」という言葉を使用しています。
同じように、まちにも自然治癒力があります。
人と人とのつながり、安心して話せる場、互いに支え合う文化。
それらがまち全体をゆっくりと癒やし、元気を取り戻していきます。
しかし現代の社会では、その力が十分に発揮されにくくなっています。
孤立、制度の隙間、不安を話せない空気──。
まちの治癒力は眠ったままです。
私たち医療者がまちに接点を持ち、看護を暮らしの営みの一部としてひらくことで、その眠っていた力は再び動き出します。
食や文化や遊びと並んで看護が存在するとき、まちは自ら癒える力を取り戻していけるのです。
4. 看護をまちに出すという挑戦
先述したように看護は「病院のもの」「病気になったら関係するもの」と思われがちです。
だから地域に出ても、どう関わればいいのか分からず、するされる関係になりやすい。
でも本当は、看護は暮らしの一部にあっていい。
まちの生活の延長線上に、食や文化や遊びがあるように、看護もまた並んで存在していいのです。
健康を守ることも、季節を楽しむことも、仲間と集まることも、すべて同じ“まちの営み”。
看護もその一角として、ともに作り上げ、分かち合えるものだと私は考えています。
お酒を出して血圧を測るBAR「Love me Tender」を毎週開催していましたが、もう少しまちに馴染む名前がいいとも感じています。
その象徴が「看護屋げんき」という名前です。
八百屋や魚屋のように、まちの商店街の一角にある「看護屋」。
八百屋さんや魚屋さんでは、「今日はこんな料理を作ろうと思ってて。」「今日はさっぱりした感じがいいな。」とか雰囲気を伝えて、
「そしたら今日は良いアジが入ったからおすすめだよ!」「最近暑いからね、きゅうりとかミョウガがいいかもね。」とかなんとなくでも的確に色々教えてくれますし、八百屋さんも魚屋さんも応えられることは野菜や魚で相談に乗ります。
であれば。
「最近こんな感じなんだけど」と声をかけてもらえれば、生活で整えるのか、医師に相談するのか、一緒に考えること、医療や看護の中で相談に対してしっかりと答える。そんな場面だって合ってもいいじゃないかなと思うわけです。
5. 相談スタンドというかたち
その挑戦を今具体的な形にしたのが「カフェスタンド」です。
地域のカフェなどで、血圧チェックやげんき相談を受けてもらう。
そのあとにはコーヒーやお酒を一杯。
支払っていただくのは、あくまで「看護への対価」です。
ドリンクは“おまけ”として添えるもの。
身体や調子の相談をしてついでにカフェではコーヒー、バーではお酒。
場に合わせて形を変えることで、看護は特別なものではなく「日常の選択肢」となります。
食や文化や遊びの一角に「看護屋スタンド」がある。
その風景こそ、まちの自然治癒力を引き出す場になるのです。
きっとその中に他の医療者がいてもいいんじゃないかとも思います。
看護屋げんきが忙しかったらお客で来ていた気のいい看護師やリハビリや医師が一緒にお酒を飲みながら話に乗ってくれる。
それこそ、まちの自然治癒力だと感じます。
横のつながりとして医療者も集まり、そしてそのさきにまちの一つの場として看護屋がある。
きっとそうなることが横のつながりの先だと思っています。
6. 看護の理念として
本当にやりたい看護とは、仲間内だけで完結するものではなく、まちに暮らすすべての人にひらかれているものです。
誰もがいつ困っても、そっと手を差し伸べられる存在であること。
そのためにこそ、看護はまちとの接点を持ち続けなければなりません。
医療ケアが本当に人の力になるのは、暮らしとつながったときです。
だから看護は病院の壁の中に閉じ込められるのではなく、まちに根を下ろし、人の営みと共にあるものでありたい。
「看護屋げんき」は、その理念を小さく形にする取り組みです。
コーヒーやお酒を片手にふと相談できる時間。
その積み重ねが、まちの自然治癒力を育む営みになると信じています。
看護とは、生命の自然治癒力を支える営み。
そしてそれは、まちの自然治癒力を引き出し、育んでいく営み。
私はそのことを信じて、これからも歩んでいきたいと思います。
それではまた看護屋げんきでお会いしましょう。