もしVol.1を読まれていない方はぜひ最初からお読みいただくと幸いです。
もちろんここから読んでもらっても大丈夫ですが、またいろいろな角度で読むこともおすすめです。
音楽を聴きながら、風景を眺めながら、誰かに想いを伏せながら。
ちなみに僕はこのZineを書いていた時と読んでいる時はいつも同じ曲が頭に流れます。
なんの曲が流れるかはお会いした時にお話しましょう。
では。
とにかく明るいおじさん
無事に大学を卒業して、看護師になったぼくは横浜にある大学病院に就職した。
祖父のような人を助けて自分のような悲しい経験をする人を減らしたいと思い超急性期の患者が運ばれるような先端医療を行っている病院へ就職した。
看護師3年目。 心臓血管外科の病棟に配属され、少しだけ仕事にも慣れ、後輩ができ、自分なりの「看護」が見えてきた頃だった。
ある日、担当になったのは50代の男性。予定入院、予定手術。心臓の手術を受けるために来院された方だった。 若くて、同じ男性ということもあり、よく話すようになった。術前の不安や、術後の予定も含め、丁寧に関わった。
手術当日、オペ室まで一緒に歩いた。 手術室看護師へ申し送りを済ませると、彼は少し固い笑顔でこう言った。 「なんか、急に怖くなってきたね。」
いつもの明るさからは予想外の言葉で驚いたが
「大丈夫ですよ。病棟でまた待ってますよ。」 いつも通りそう返したものの、なぜかあのときの表情は今でも忘れられない。 不思議な胸騒ぎが残った。

その後、ぼくは数日休みに入り、出勤した日、同僚から言われた。
「〇〇さん、15階に行っちゃった。」
――え?15階? この病院は14階までしかない。
カルテを探し、集中治療室にも病棟にも名前がない。 嫌な予感が、確信に変わった。
死亡退院の記録。手術中に大量出血。 術後も止血できず、開胸のままICUに戻る。 幾度も輸血したが、止まらなかった。 小さな姪っ子が面会で泣きじゃくっていたという記録が残っていた。
ぼくは、「人はそう簡単に死なない」とどこかで信じていた。 だって、優秀な先生が計画した手術だったし、あんなに事前準備をしたんだから。
だけど、それでも亡くなる命がある。 知識や技術をどれだけ尽くしても、救えない命がある。
その現実を、ようやく受け止めた。
亡くなったとき担当したICUの看護師は、大学時代の同級生だった。 彼女から、「あの子の姪っ子、毎回来ててね…ほんとに泣いてたよ」と教えてもらった。
ふと、祖父が亡くなった日のことを思い出した。 同じように、ぼくも泣きじゃくった。 小さいときの自分が、その姪っ子と重なった。
あのときからぼくのなかにひとつの問いが芽生えた。
「知識や技術だけでは救えない。じゃあ、ぼくにできることって何だろう?」
――そうして、ぼくの看護は、病院の外へと向かい始めた。
良い天気だねおばあさん
病院での喪失体験のあと、ぼくはふと、生まれ育った茅ヶ崎の小出地区を訪れた。 祖父と一緒に暮らしたあの家はもう売ってしまって他人のものになっていたけれど、周囲の道や、庭の感触、空の広さは、変わらないままだった。

懐かしさに導かれるように、実家のまわりを歩いていたときのこと。 後ろからゆっくりと近づいてくる人の気配がした。
ふと振り返ると、見知らぬおばあさんが、優しい笑顔でこう言った。
「良い天気だねぇ。」
横浜では、知らない人から道で声をかけられることなんてなかった。 だから、びっくりした。でも不思議と、嫌な気はしなかった。 むしろ、ほっとして、懐かしさが込み上げてきた。
「良い天気ですね。」と返した。
それだけの会話だった。 おばあさんは、ふわりと去っていった。
だけどその一言――「良い天気だねぇ」が、ぼくにはこう聞こえた。
「おかえり。」
ああ、迎え入れてもらったんだ。 ここに戻ってきても、いいんだ。
そう思ったとき、自然と胸の奥があたたかくなっていた。
日常的にこうやって声を掛け合ったら、佐藤先生のようにだれかが見守ってくれてたら、祖父は、明るいおじさんは助かったのかもしれない。
ぼくや、おじさんの姪っ子ちゃんは悲しい気持ちにならなかったのかもしれない。
全部かもしれないだけど、看護師として働いて培ったこの感覚はたぶん正しい。
この場所で、もう一度始めよう。 祖父と過ごした時間、看護師として出会った人たちの涙、抱えた喪失感―― すべてを抱えて、この場所で「誰かの救い」になれる場をつくろう。
それが、「村をつくろう」と思った最初の一歩だった。
村なら自分の手の届く範囲の人たちを守ることができると思った。
次回、この想いをどのように形づくるかを考えました