GEN.-Muku’s Zine- - Muku

GEN.-Muku’s Zine-

まえがき

このZineを書くにあたり、文章の内容や確認で力をお借りした「Cの辺り」の池田美砂子さんありがとうございました。

地域の皆さんの力があってこそのこのZine発行です。いろいろなことがありましたが、一旦立ち止まり振り返る時間も必要です。そんな僕の一部ではありますが人生を一緒に振り返りながら、皆さんも振り返る時間になれれば嬉しいです。

どのようにブログとして発信しようか悩みましたが、少しずつお読みいただき最後にまとめて出そうと思いました。

「無患子(むくろじ)」──子どもの患いをなくすという意味を持つその木は、 昔からお守りとして、また石けん代わりにも使われてきた“癒し”の象徴です。

そんなむくろじの木をイメージして、ぼくが“看護”や“まち”に向き合う上でのひとつの根っこをMukuと名付けました。 「まちの自然治癒力を高める」というテーマのもと、 日常に溶け込んだケアや寄り添いが、誰かの生活の中でふと芽吹いていくことを願って活動を続けています。

ZINEのタイトル「GEN.」には、いくつかの意味を込めました。 「元気(Genki)」「原点(Genesis)」「遺伝(Gene)」「世代(Generation)」── どれも、“自分が自分である理由”にまつわる言葉たちです。 そして、たくさんの人や時間との関わりの中で育まれた“自分の源”。

このZINEは、「Muku」という木の静かであたたかな根っこの記録です。 手にとってくれたあなたの中にも、小さな種が落ちたら嬉しいです。

おとうさん

幼少の頃、ぼくはおじいちゃん子だった。

海軍兵学校を卒業して海上自衛隊の戦艦に乗っていた祖父は誇りで、子ども嫌いなはずなのにぼくにだけとても優しかった。

尊敬して、大好きでぼくも姉もいとこも家族みんな祖父のことを「おとうさん」と呼ぶちょっと風変わりな存在だった。

ある夜中、バタバタと足音で目が覚め、辺りを見渡すと部屋が真っ赤に見えたのを覚えている。赤いフィルターがかかったような、どこか現実とは思えない光景だった。翌朝、祖父が救急車で運ばれて入院したことを聞いた。病院へ向かうと集中治療室に案内され、胸がざわついた。今まで何度も入院したことがあるが今回はすごく嫌な予感がした。その日祖父は意識があり、いつもの穏やかな笑顔で迎えてくれたが、帰り道なぜか涙が止まらなかった。

その翌日から、祖父は意識を失い、状態は徐々に悪化。ある日の夜中病院から呼び出しがあった。駆けつけてから落ち着いて、家族が親戚へ連絡するために一時的に病室を離れたとき、ぼくの目の前で祖父の呼吸が止まった。慌ててナースコールを押し、看護師が駆けつけ、ぼくは家族を呼び戻しに病室を出た。病室へ戻ると心臓マッサージが始まっていた。病気により祖父のお腹は膨れ上がり、今まで知っていた祖父の姿ではなかった。汗だくで医師や看護師が代わる代わる心臓マッサージをしていた。ぼくは横で、強く手を握りただ祈ることしかできなかった。

「どうか神様、助けてください。」

神様なんて信じたことなんてない、都合が良いのはよくわかってるけど、どうかいるなら助けてほしい。ただそれだけを願った。

子どものぼくには、それ以外何もできることがなかった。

医師が「これ以上は…..」と言ったと思う。そして父が「もう大丈夫です。ありがとうございました。」と言い、横にいたぼくは「なんで止めるんだ。まだ助かるかもしれない。」そう叫びたかったが、言葉として出たのは「ありがとうございました。」だった。

祖父のされるがままの姿をみてどこか心の中で無理だと悟ったのだろう。

祖父は亡くなった。

その無力感が、ずっと心に穴をあけていた。心のどこかにぽっかりと、真っ暗で冷たくて、触れられたくない場所ができてしまった。

ぼくは自宅の遺体が安置された部屋で、何日も泣き続けた。目の前で白く冷たく横たわる祖父が、どうしても現実のものとは思えなかった。大好きだった祖父。ぼくにけん玉やベーゴマを教えてくれて、夜一緒に星を数えてくれて、芝刈りや晩酌ごっこもしてくれた。遊び仲間であり、師匠であり、もう一人の父のような存在だった。

喪失があまりに大きすぎて、時間が経っても、どこか自分の一部が置き去りのままで時間が止まってしまった感覚があった。

この真っ暗な心の穴を埋めるためにできることは、ぼくのような悲しい気持ちを1人でも減らせるような誰かを助ける仕事に就くことなのかもしれないと思った。

佐藤先生

祖父を亡くしてから中学生3年生まで、ぼくはずっとどこか心ここにあらずだった。

何をしていても、何を言われても、自分の芯が抜け落ちたような感覚のまま過ごしていた。けれど、そのことをちゃんと見ていてくれた先生がいた。中学3年間、担任を務めてくれた――佐藤先生だ。

女性の若い先生で、秋田出身でたまに方言が出たり、生徒との距離感も近くいつも賑やかな方だった。

卒業前の面談の時間、佐藤先生は「実はね、元希の担任を3年間続けてきたのは、私が希望したの」と打ち明けてくれた。

驚いた。自分が意識せず過ごしていたと思っていた時間のなかで、先生はちゃんとぼくの変化を、心の奥にある何かを見てくれていたのだと、初めて知った瞬間だった。

そしてその面談で、自分の中にあった心の穴のことを言葉にしたとき、涙が止まらなくなった。心の真っ黒なことをうまく言葉にできない感情が溢れて、嗚咽まじりに泣いたぼくの前で、佐藤先生も泣いてくれた。

ただ誰かに話すこと、ただ一緒に涙を流してもらうこと。それだけで心の穴が少しだけ小さくなったような、温かさに包まれたような気持ちになった。

そのときに、「人と話すことって、こんなにも救われるものなんだ」と、はじめて実感した。

だからこそ、人を救う仕事の中でも医者ではなく、看護師になりたいと思ったのかもしれない。そうすれば心の穴は埋まるかもしれない。

医療技術で治すだけではない。話を聞き、寄り添い、その人の傷ついた心や生活に手を添える存在。それが自分にとっての“看護師”という存在になっていった。

次回

僕が看護師になった時、そこで自分が望む看護師ができたのか。