正義同士の衝突
前回のブログでは、正義とは「価値」と「方法」に分けられることをお話ししました。
人は皆「命を守りたい」「平和でありたい」といった価値を共有しています。
けれど、その価値をどう守るかという方法がずれたとき、正義は衝突します。
医療の現場では、延命治療か安楽死か、ワクチンを推進するか反対するか――。
社会では、ベジタリアンや環境活動家がデモを通して訴える正義と、別の立場の人々の正義がぶつかります。
価値は同じでも、方法の選び方が違うだけで衝突が生まれるのです。
そして国家レベルでその衝突が起きれば、それは「戦争」という形を取ります。
戦争は、価値の違いではなく「方法の狭さ」から生まれる正義の衝突だと思います。
だからこそ、戦争を縮小するには「方法を選び直す視点」が必要になります。
今回は、その視点から戦争の変化と結果を整理していきます。
戦争の変化(昔 → 今)
かつて戦争は「領土を奪い国境を変える」ことでした。
勝てば土地が広がり、負ければ独立を失う。単純でわかりやすい構図でした。
しかし現代の戦争は、その形を大きく変えています。
経済戦争
資源や企業を押さえ、相手国の暮らしを揺さぶります。
特に土地の買い占めは深刻です。
- 水源地が外国資本に買われれば、水の利用や価格が左右される。
- 農地が押さえられれば、食糧供給が他国に依存する。
- 港や空港が買収されれば、物流や安全保障が握られる。
- エネルギー企業が支配されれば、電気やガスの安定供給が揺らぐ。
国境はそのままでも、暮らしの基盤が他国に握られることは、戦争の結果に等しい影響を持ちます。
情報戦争
SNSを通じた世論操作やフェイクニュースの拡散、サイバー攻撃によるインフラの麻痺。
血が流れなくても、人々の生活と心は大きな傷を負います。
テクノロジーの利用
無人兵器、自律型ドローン、AIによる攻撃と防御。
AIは「人を守る方法」にも「人を攻撃する方法」にも使われる。
テクノロジーは正義を広げる力にも、戦争を拡大する力にもなるのです。
戦争の結果 ― 二層構造
戦争の結果には、二つの層があります。
形式的な結果
国として独立を保てるかどうか。国境や政府、法律、通貨…。
これらが自国のものでなくなれば、形式的独立を失います。
例:ハワイはアメリカに併合され、形式的独立を失いました。
実質的な結果
文化やアイデンティティを守れるかどうか。
形式的に独立を失っても文化を残せれば、自分たちらしい暮らしを続けられます。ハワイには形式的な独立はなくても「ロコ文化」が生きています。
一方でチベットやウイグルでは、文化や宗教に制限が加えられ、実質的な独立も失われつつあります。
戦争の本質的な結果は「国があるかないか」ではなく、「自分たちらしい暮らしを守れるかどうか」にあるのです。
戦争に至る正義(価値と方法)
戦争は「価値」から始まります。
- 国民を守る
- 平和を守る
- 独立を守る
- 尊厳を守る
けれど、そのための「方法」が異なります。
- 軍事(抑止、防衛、侵略)
- 経済(制裁、資源独占、土地の買い占め)
- 情報(世論操作、サイバー攻撃)
- 法制度(国際ルールを自国に有利に設計)
- テクノロジー(AIを攻撃に使うか、防御に使うか)
そして方法を決める要素は三つ。
- 優先順位 ― 自国の安全を最優先か、自由や人権を優先か。
- 守る範囲 ― 自国民のみか、同盟国や国際社会まで含むか。
- 未来イメージ ― 秩序で守る平和か、自由で支える平和か。
この選び方が狭くなると、戦争に至ります。
「自国の安全だけ」を最優先すれば、「やられる前にやる」という思考になり、戦争が方法として選ばれてしまうのです。
AIと戦争、そして平和への転換
私はAIとの対話を通じて、こんな気づきを得ました。
テクノロジーの多くは戦争から生まれてきました。
火薬、飛行機、原子力、インターネット…。
強烈な「生き残る必要性」が技術を加速させてきたのです。
AIはこう教えてくれました。
戦争は強烈な必要性を生むから技術が進化した。
でも本当は、医療や環境問題にも同じくらい強い必要性がある。
人類は危機が迫らないと全力を出せなかった。
AIは分岐点に立っていて、戦争を拡大する道具にも、平和を守る道具にもなれる。
この言葉を受けて僕は思いました。
戦争に使われて進化してきたAIを、これからは暮らしや医療のために駆使したい。
「まちのかかりつけナース」として血圧や体調を記録し、地域の安心につなげる。
Mukuの活動を通じて、まちの自然治癒力を整える。
AIを人を守る正義の方法にしたいのです。
Mukuとしての価値観
僕が仲間と取り組む「Muku」は、まちの自然治癒力を最大化することをビジョンに掲げています。
看護の本質は、生命力の消耗を最小にする環境を整え、回復を支えること。
それは病院の中だけでなく、まち全体にも必要だと考えています。
戦争や社会の分断は、狭い優先順位や対立から生まれます。
だからMukuでは、誰かを排除するのではなく「違いを持った人同士が対話できる場」を大切にしています。
看護的なまなざしで人と人をつなぎ、まちを看護する。
それは、戦争に至らない正義を日常の中で実践することでもあるのです。
これから目指すもの
戦争は形を変え、結果の出方も複雑になっています。
形式的独立を失うこともあれば、実質的にアイデンティティを失うこともある。
そして戦争は、価値が同じでも「狭い方法」を選ぶときに起こります。
けれど僕たちは、危機が来る前に方法を選び直すことができる。
AIとの対話から学んだのは、戦争でなくても技術は進化できるということ。
Mukuの実践から学んだのは、まちを看護し、対立を対話に変える力があるということ。
僕の暮らす茅ヶ崎には「まちのbar」というコミュニティもあります。
そこでは「対立ではなく対話を」という言葉を大切にし、お酒を片手に違いを楽しむ人々がいます。
小さなまちの営みが、戦争に至らない正義の方法を選ぶヒントになるのだと思います。
戦争をなくすことは難しくても、縮小することはできる。
その始まりは、国際政治の大舞台だけでなく、私たちの日常や地域からも生まれるのです。