先日、「科学を信じるってことは、科学教みたいなものにならないのか?」という話題になった。
普段、医療やまちでの健康づくりに携わっていると、「科学的に正しいこと」を大事にしながらも、同時に「人の信念」や「安心したい気持ち」と向き合う場面が多い。だからこそ、この問いは自分の活動とも深く重なっている。
そもそも何でそんな話になったのか、あまりちゃんとは覚えていないが人それぞれ正義ってあるよね?のような話から派生した気がする。
正義についてはまた次回話したいと思うが、今回は科学と宗教の関係性について深掘りをしていきたい。というより考えていたら楽しくなったので共有したい。
どうぞお付き合いください。笑
科学の本質は「疑い続けること」
友人と話していて、宗教と科学の違いは、現象に事実があるかないかだと話をしたが、個人的にはあまりしっくりきていなかった。
自宅に帰ってから、ChatGPTと壁打ちをして、宗教と科学って何が違うのか言語化するのを手伝ってもらった。
科学と宗教を比べるとき、一番大きな違いは「疑う」か「信じる」かだ。
なるほど、科学にはクリティカルシンキングという考え方があるし、宗教は信仰するということがある。
科学は、仮説を立て、実験や観察を通じて検証し、反証があれば修正する。
つまり科学の強みは、「疑い続ける仕組みそのもの」にある。
ニュートンの重力の法則も、アインシュタインの相対性理論に更新されたように、科学は常に“暫定的な真理”であり、絶対ではない。
だから本来の科学は「信じる対象」ではなく、「疑う態度」と言えるのか。
宗教の本質は「揺るぎない意味」
一方で宗教の本質は、超越的なものを信じることにある。
神や仏、宇宙の理、経典の教え──「揺るぎない真実」として受け入れる。
宗教は疑いではなく「信じる」ことが前提だ。
それは科学とは違う役割を持っている。
宗教は「なぜ生きるのか」「なぜ苦しむのか」といった科学が答えにくい問いに意味を与え、共同体をつなげ、心のよりどころを作る。
例えば
絶対的な神や信仰するものを、あの神もしかしたらめっちゃ女癖悪いかもしれない、女癖悪い神を信じると苦しさは無くならないかもしれないと疑うことはない。
そういうことだ。
「科学を信じる」とはどういうことか?
問題はここからだ。
本来、科学は「疑うことを前提とする仕組み」なのに、人はつい「科学を信じる」と言ってしまう。
- 「論文に書いてあるから正しい」
- 「専門家が言っているから間違いない」
こうした態度は「科学を絶対視する」ことにつながりやすい。
つまり「科学は疑うもの」なのに、「科学は信じるもの」として扱ってしまうと、構造的には宗教に近づいてしまう。
実際に自分も論文や変わらない事象に関しては正しいと思ってしまっていた。
科学教と呼ばれてしまうとき
もし科学を
- 「絶対に正しいもの」
- 「科学で説明できないものは全部無意味」 と捉えてしまうなら、それはもう“科学教”と言われても仕方がない。
宗教の本質が「揺るぎない意味を信じる」ことだとすれば、
科学を「揺るぎない真理」として信じ込む態度は、まさに宗教と同じ構造だからだ。
友人との会話で揺るぎないものとして説明をしてしまった。これでは確かに科学教のように絶対的なものとして信仰していると言ってもおかしくない。
科学を科学のまま保つには?
科学が「科学教」にならないために必要なのは、やはり疑うことをやめない態度だと思う。
- 科学にも限界があると認めること
- 新しいデータが出れば修正すること
- 科学で扱えない領域(生きる意味や価値観)があると理解すること
科学は人を救う力にもなるし、人を傷つける力にもなる。原爆も薬害も公害も科学の産物だ。
だからこそ、科学を「万能な正義」として信じ込むのではなく、「どう使うか」を常に考え続ける必要がある。
ただ科学とは僕が思うに犠牲なくしては生まれなかったものと思っている。
堺雅人さんが主演のリーガルハイの言葉が僕の中では割と刺さっている。
現代の医療は死屍累々の屍の上に成り立っている。
誰しも医学の進歩のためには、犠牲があっても仕方がないと思っているはずだ。
その恩恵を受けたいからね。
しかし、その犠牲が自分や家族であるとわかった途端にこう言うんだ。
話が違う!!と。
なんで自分がこんな目に合わなけらばいけないんだ?誰のせいだ?誰が悪いんだ!誰を吊るしあげればいいんだ!
教えてやる。
訴えたいなら、科学を訴えろ!
僕はたくさんの犠牲やコロナワクチンの副反応で心臓病を患ってしまった学生も見てきた。
でもその方達無くしては今のこれだけの人を救う技術は成し得なかったのも事実。
科学教とは、疑うことをやめてしまった世界線なのだと思う。
まちのかかりつけナースとして思うこと
医療の現場で「薬を飲みたくない」という患者さんに出会うことがある。
医療者から見れば「薬を使うのが正義」、患者さんから見れば「薬を使わないのが正義」。
その衝突の中で、僕ができるのは「科学を絶対視する」のでも「患者さんの信念を否定する」のでもなく、両方をつなぐことだ。
たとえば「薬は自然治癒力を邪魔するのではなく、助けるための一時的な補助です」と説明したり、「今だけ最低限の薬を使えば、将来に自然な治療の余地を残せます」と未来の自由を守る物語に変えて伝える。
ここで大事なのは、科学を「信じろ」と押しつけることではなく、「科学をどう自分の物語に活かすか」を一緒に考えることだと思う。
科学は「世界を説明する力」、宗教は「世界を意味づける力」。科学も宗教も軸が違くて、それぞれが正しく機能することで暮らしや健康は安心できるのだと感じた。
おわりに
科学は「疑うこと」をやめない営みであり、宗教は「揺るぎないものを信じる」営みだ。
だから、科学を「信じるもの」とした瞬間に、それは宗教の構造と同じになってしまう。
揶揄的に「科学教」と呼ばれるのは、そういう態度をとったときだろう。
大切なのは、科学を信じるのではなく、科学を疑い続けること。
そして、その疑い続ける態度を通じて、人の物語に寄り添い、未来を守る選択を一緒に探していくこと。
僕にとってそれが「科学を科学のままに保ちつつ、人に役立てる」ということなんだと思う。